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大山寺本堂の再建
明治初期現阿夫利神社下社にあった本堂伽藍は破壊され、多くの僧は四散して仮住まいが続くことになった。
明治六年本尊および僧職が仮の建て屋に移った。
大山寺大堂建立には相模武蔵はじめ諸国の信徒が浄財を、五里四方の村々からは欅(ケヤキ)の大木を寄進され たので、九年間にものぼる難工事を克服して竣工した。 |
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| 明治初年 |
廃仏稀釈によって本堂伽藍が破壊される。 |
| 明治6年 |
現場所に仮屋を建てご本尊や僧職、寺宝が移った。
この地にはもともと来迎院(茶湯寺)があり、大佛(おおほとけ)とよばれた巨大な
五輪塔や、多くの玉垣、卵塔、五輪塔が整然とならんでいた。
しかし祈祷寺の近接に墓地を残すことができないため地元の人々の協力により
大佛ひとつを残して整理移転され用地を確保した。
大佛は後年の災害により倒壊し現在その水輪の丸石が宝篋印塔前の香炉とな
って残されている。 |
| 明治9年 |
手斧始め
いよいよ地元の村々のみならず、関東一円、全日本の信者たちの協力による大
工事が開始される。 |
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まず整理されたとはいえ、本堂伽藍を再建するには、あまりにも敷地が狭いため
多くの人々が協力して後山を削り整地して用地を確保した。
大堂建築の主材となった欅の巨木を大堂建築地まで引き上げるには想像を絶す
る困難な事業となった。
まず材木を寄進した周辺の村々から夜を日に次いで人々が麓の子易明神まで運
びつけた。
ここから上は伊勢原市上粕屋と子易の人たちが結集し、車も通れない石段作りの
参道を雲井橋まで引き上げた。
雲井橋から上は段差が急で担ぎ上げができないため、山腹になだらかな勾配の
道を開き谷には桟橋をかけ、いわゆる「引地道」を急造して麓の人々が総出で綱
をつけて引きづり上げたのです。
この一番苦しい運材の難所を里の人々が奉仕で引き受けた故事から
里謡にも歌い継がれました
大山不動さん 誰がたてた
山王原、七五三引き、子易がたてた
ドッコイ、ドッコイ、ドッコイショ
本堂のすばらしい彫刻の数々は当時名人といわれた名匠 手中明王太郎がかけつけ全霊をうちこんで彫刻を行った。
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明治17年
11月 |
上棟式 |
明治19年
11月21日 |
入佛式 |
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入佛式は七日間にわたって行われた。
その間大堂では毎日入佛御法楽がおこなわれた。
言い伝えや各種文章で残されているその様子から全国の信者たちの喜ぶ様子がひしひしと伝わってきます。
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1. |
田村の渡しなど相模川の主な渡船場には付近の船を寄せ集めて臨時の船橋
を架け期間中一切無料で関東一円より続々押しかける群衆に開放した。 |
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2. |
大山道すべての辻、角に灯明をつけ昼夜の区別なく押しかける民衆の目印とした。 |
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3. |
山頂で毎日修験者が焚く柴灯護摩の煙は、20Km四方から見えた。 |
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4. |
当時の狭い道の行き交いに、石段に接した店や宿坊の板屋根の上を人が歩いた。材木を引き上げるための「引地道」も人の行列だった。 |
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5. |
地元の茶屋やみやげ物店は大繁盛で7日目にはすべての品物を売り尽くし、それでも客が何でもいいから記念になるものをくれと言って、ろくろの嵌め型まで買っていったという。 |
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6. |
また仮設能舞台が作られ、連日の能興行や、草競馬、草相撲などもおこなわれた。 |
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7. |
また芝居の舞台をかけ、東京歌舞伎の奉納上演も行われた。 |
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| 明治21年 |
大堂屋根を前面銅版葺き替えを行う。 |
| 昭和6年 |
銅版の一部を葺き替え、予算の関係で一部を鉄板にて葺き替え。 |
| 昭和45年 |
鉄板部のみ鉄板を上乗せ修理 |
| 昭和58年 |
今回全面を銅版にて葺き替え。 |
| 平成12年 |
台風による災害のため本道裏の山が崩れ宝物殿の一部と本堂の屋根の一部が破損、ご本尊が本堂内に移られる. |
| 平成14年 |
神奈川県や伊勢原市の協力により裏山の復旧補強工事が完成 |